Zoomで留学生と話す「日本語くらぶ火曜会」

 
11年前の2011年3月末で定年退職した。その年の7月から外国人留学生と対面で日本語で話をする活動「日本語くらぶ火曜会」に参加し始めた。ちょうど東日本大震災で母国に一時帰国していた留学生が日本に戻り始めたというタイミングであった。

2017年7月に東京文京区の自宅から北海道石狩市の妻の実家に越したので、6年続けたその活動に参加できなくなった。ところが2021年1月にコロナで休止していた活動をZoomで再開したいので協力してほしいというメールを受け取った。それでリモートで「日本語くらぶ火曜会」が再開され、また石狩から毎週参加するようになった。それからまた1年が過ぎた。

コロナで外国人入国規制が続き新たな留学生が来ないので留学生参加者が減ってきた。他方、Zoomなので少数ながら外国からの参加者もいる。今週火曜日は以前から知り合いのバンコク在住の元留学生と話ができた。入国規制が緩和されて留学生が増えてきそうだが、対面の活動を再開するには場所の確保が必要なので、Zoomでの活動はまだ続きそうである。

そんな経緯があった中、今日(2022年4月29日)Facebookの「過去のこの日」に6年前の2016年4月29日のFacebookノートが上がってきた。退職後延べ10年かかわってきた活動に関するノートなので、「石狩老人日記」に再掲しておくことにした。(以下)

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2016年4月29日

「アジア文化会館と穂積五一」を読んだ

「アジア文化会館(ABK)」は、文京区本駒込の文京グリーンコートの高層ビルの裏にある古びた低層ビルである。そこの研修室(教室)で週1回行われる「日本語くらぶ火曜会」の活動にわたしが参加し始めてからもう丸5年が経とうとしている。日本語くらぶ火曜会は、「ABK留学生友の会」というボランティア団体が行っている活動のひとつで、わたしもその友の会に年会費を拠出している。しかし、その団体がどういう団体なのか、また、「アジア文化会館(ABK)」を保有している「公益財団法人アジア学生文化協会(ASCA)」がどういう団体なのかについては、とくに必要も感じなかったのでこれまでそれほど関心を持たずに来た。最近になって少し興味がわいたので調べてみると、『アジア文化会館と穂積五一』という600頁もあって五千円もする本があることを知った。文京区図書館に蔵書があったので借りてひととおり読んでみた。この本は、穂積五一という人の追悼文集として編纂されたものなのでやや読みにくいところがあるが、各所に面白いエピソードが紹介されていて得られることの多い貴重な1冊となっていると思う。 

穂積五一(1902-1981)は、「アジア学生文化協会(ASCA)」の創立者で初代理事長である。2007年がその協会の設立50周年にあたることから、さまざまな記念行事を開催するとともに、「穂積五一先生追悼記念出版委員会」の編著によってこの追悼本が記念出版された。基本的に、生前の穂積五一とその業績を知る人たちの追悼文や思い出話を集めたものであるから、同じ出来事が複数の人によって語られたり、話が時系列になっていなかったりしていて、事実を知りたい一般の読者にとってはかなり読みにくいところがある。わたしも穂積五一という人を全く知らないので、沢山の追悼文集には少し辟易させられるところがあった。それでも、ともかく分かったことは、穂積五一という人は、戦前の東京帝国大学法科で学んだが戦前戦後を通じて生涯官職に就くことはなく、したがって世に知られた大きな歴史の局面に名を残すこともなかったにもかかわらず、同時代の政財界人には彼に影響を受けた人々が多数いて、この本にはそういうエピソードの証言が沢山寄せられていることである。穂積五一には人間的な魅力があって、会った人たちに大きな影響を与えたということが重ねて述べられている。それで、この本を読み解いて分かったことをわたしなりに整理してみたいと思った。

  さて、「アジア学生文化協会(ASCA)」は、1957年に、東京大学の正門近くにあった穂積五一が主宰する「新星学寮」内に文部省認可財団法人として発足した。植民地支配から日本占領を経て終戦を迎えたアジア諸国は、その1957年のマラヤ連邦(現マレーシア)独立を最後にほぼ独立を果たしていたが、いずれもまだ国づくりの途に就いたばかりであった。そうした国々からの国費留学生の受け入れは始められたばかりで、その官製の処遇には物心両面で多くの問題が生じていたので、留学生たちによる激しい改善要求運動が後々まで続くこととなった。「新星学寮」にもそうした国々からの留学生が出入りしていて、穂積五一は、国費留学生の処遇改善に取り組むとともに、「新星学寮」と同様の民営自治によるアジア留学生会館の建設を目指すようになった。これには政府首脳(岸首相)からも支援の申し出があったらしいが、国の留学生会館はすでにあり、民間運営と留学生自治の原則を貫くためにそれを辞退したという。 

1959年に、「社団法人日本機械工業連合会(JMF)」加盟企業が海外技術研修生の受け入れを始めるにあたって、その生活面の受け皿を必要とした。通産省からの協力要請に対し、穂積五一は人事と運営の一任を条件に「財団法人海外技術者研修協会(AOTS)」(現在は「一般財団法人海外産業人材育成協会(HIDA)」に発展)の初代理事長に就任した。これによって、新設される「アジア文化会館(ABK)」は、「アジア学生文化協会(ASCA)」の留学生に加えて「海外技術者研修協会(AOTS)」の技術研修生も受け入れる施設になった。日本機械工業連合会加盟企業他大手企業の資金協力を得て、当初計画よりも規模を拡大して「アジア文化会館(ABK)」は1960年に完成した。「アジア文化会館(ABK)」には、「アジア学生文化協会(ASCA)」と「海外技術者研修協会(AOTS)」の事務所が置かれ、収容定員は119名、うち留学生定員は30名で1か国2名以内の原則で受け入れを行った。そして、運営は「新星学寮」の流れを引き継いで、留学生と研修生の「自分たちの家」として自治の原則が貫かれた。 

1963年に行われた「アジア文化会館(ABK)」3周年記念式典で、留学生と研修生の自治原則の象徴的な出来事があった。留学生と研修生による準備委員会で、3周年記念式に合わせて「アジア・アフリカの独立と発展に尽くした物故先人の慰霊祭」を行うことが決定された。式には当時の通産大臣・文部大臣・外務大臣が列席して祝辞を述べたが、そこに、各国留学生が物故先人の写真と略伝を英和対訳したパンフレットを作って配布し、大きな写真を展示した。その中で韓国留学生が推した一人が、1909年にハルピンで日本の元勲伊藤博文(初代朝鮮総督)を暗殺し1910年に刑死した安重根であった。出席者の中から強く撤回の申し入れがあったが、穂積五一はそれに応じなかった。留学生と研修生の自治にゆだねているからには、その信頼を裏切ることはできないという信念があったからであろう。そして、結果としてそれが重大な問題に発展してしまうようなこともなかったようであるから、当時の日本は現在よりもずっと寛容であったと言えるであろう。 

他方で、穂積五一は、個人として多くの留学生の保証人となったり、場合によっては養子にまでしたりしたという。当時の日本にアジア人が在留するには保証人が必要であった。国費留学生は文部省の役人が形式保証人となったが、親身になって相談に応じることもなく何かあるとすぐ給付を打ち切って保証人を降りてしまった。また、留学生の母国の政情も不安定で、留学生の立場からすると、お金(給付)と身分(パスポートと在留許可)の両面で厳しい状況に置かれる懸念があった。この本にはその具体的事例がいくつも紹介されている。 

この本からは離れるが、「ABK留学生友の会」は、穂積五一没後5年を経た1986年にABKの近隣住民ら有志によって結成された。その最初の活動は、ABK留学生の保証人を引き受け、親身になって面倒を見てやり、それによって生じるリスクは会員全員で連帯して負うこととしたものであったと推定している。しかし、1995年の入管法運用変更によって、留学生は留学先の日本語教育機関の入学証明によって在留許可が取得できるようになったので、個人保証人引受は不要となった。保証人になる必要はなくなったが、留学生と日本人を組み合わせて親身に面倒を見たり、場合によっては金銭を貸し付けたりする活動は継続されたらしい。しかし、問題が生じたためか、その活動も現在は行われていない。留学生支援事業をやめた「友の会」は、2003年から「日本語くらぶ」の活動を開始し、現在ではそれがメインの活動となっている。 

この本に戻ると、1964年以降各国に「ABK同窓会」が組織され、1966年には第1回代表者会議が行われた。「ABK同窓会」推薦の「海外技術者研修協会(AOTS)」研修生受け入れが開始され、1968年にはABK新館増築と広島アジア文化会館開設、1973年にはタイ国ABK同窓会を母体にバンコクに泰日経済技術振興協会(TPA)が設立されるなど、ちょうど日本の高度経済成長期にあたる時期に活動の隆盛を迎えた。しかし、それに伴って「海外技術者研修協会(AOTS)」の研修生受け入れも拡大し、穂積五一没の翌年にあたる1982年にATOSは東京研修センターを開設してABKから事務局を引き上げ、ABKの企業研修生受け入れは終了した。 

1982年のATOS研修生受け入れ終了によって、「アジア文化会館(ABK)」は「アジア学生文化協会(ASCA)」が単独で留学生を受け入れる本来の施設に戻った。事業収入の大幅縮小に対応するために、1983年に大学進学留学生のための日本語コースを開設して日本語教育機関事業を開始し、1987年には大学院及び専門学校進学留学生のための日本語専修コース開設を行った。これによって、「アジア文化会館(ABK)」は、日本語学校と留学生寮を運営する現在の姿になったのである。 

さて、穂積五一の「思い」は、「アジアの人々が戦前の日本に抱き続けている不信を、『戦後の生まれ変わった日本』が払しょくする」ことにあり、それを留学生が自治を行う会館の建設として実現し、その運営を民間ベースで続けていくことにあったと思われる。しかしながら、「戦後の生まれ変わった日本」は、高度経済成長に伴って安い労働力を求める企業という形でアジア諸国に進出した。1973年に行われたABK同窓会の第3回代表者会議では、シンポジウムのテーマは「日本の経済進出とその影響」と決定され、各国で発生している様々な問題を提起する場となった。その象徴的問題が「拘束契約」である。 

フィリピンに進出した日本企業が、現地従業員を「海外技術者研修協会(AOTS)」の2年間の技術研修に受け入れ、研修後2年間は現地水準の半分の賃金で働かせ、辞める場合には研修費用の返還を求める雇用契約を強制して、退職を申し出た元研修生に返還請求をおこなった事例が訴えられた。このような日系企業による「拘束契約」は他の国々でも一般的に行われていた。日本の労働基準法ではこうした契約は禁止されているが(第十六条「賠償予定の禁止」)、外国で結ばれる雇用契約に日本の法律は及ばないし、日本でも遵守されないケースは発生している。賃金が安く労働規制もゆるいことが日本企業のアジア進出のメリットとなっているのである。 

「海外技術者研修協会(AOTS)」は日本企業の研修生受け入れの拡大によって事業規模を拡大していたので、事務局には理念に基づいて「拘束契約」禁止を求めると事業が縮小してしまうという危機感が生まれて亀裂が深まった。1974年には当時の田中首相のインドネシア訪問に対してジャカルタで反日暴動(マラリ事件)が発生した。穂積五一の「思い」は、国のレベルでも彼自身が関与する活動のレベルでもむしろ後退していた。1977年に4百名が集まって行われた喜寿のお祝いの席で、穂積五一は「拘束契約」の禁止が進まないことへの苛立ちと怒りを露わにした挨拶を続けたという。 

穂積五一が、おそらく失意を抱きつつ没してからすでに35年もの年月が経過した。その間に、低コスト労働力を求める日本企業の海外進出はいっそう加速し、日本国内の産業空洞化と経済成長の長期停滞をもたらした。「アジアの人々が戦前の日本に抱き続けている不信を、『戦後の生まれ変わった日本』が払しょくする」ための日本人の努力は必ずしも十分ではなかったように思われるが、世代交代と日本の経済的優位性の相対的後退によって、反日感情は全体として過去より緩和しているように感じられる。日本への留学生ははるかに増え、旅行者はそれ以上に飛躍的に増加していて、人の移動数増加による「交流」はきわめて厚くなっている。 

さて、「アジア文化会館と穂積五一」を読み終わって、穂積五一の事績である「アジア文化会館」で行われる「日本語くらぶ」で毎週留学生と話をするのには、どのような目的と意義があるのであろうかということをあらためて考え直してみたくなった。


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